「行こうとしていた地に着いた」  08.02.10
                       ヨハネ6:16〜21

 その時、弟子たちは主イエスをお乗せしないまま、向こう岸に
向かって舟を出しました。暗くなっていましたが、弟子の中には
漁師出身の者もいます。よく知った湖です。向こう岸に着くのは、
簡単なことだと思っていたのでしょう。しかし、その船は、目指す
地に着けませんでした。暗闇の中で進めないで漂っていました。
その船に主イエスが歩み寄ります。そして主をお迎えすると、
船は目的地に着いたのでした。
 この出来事に、この世で生きる私たちの姿が映し出されて
います。弟子たちにとって、湖は日常生活の場でした。私たちも
家庭や職場といった普段の生活の場に、主イエスを置き去りに
して踏み出すことがあるのではないでしょうか。それでも、
それなりに過ごしていくことはできます。主イエスを抜きにして
過ごすからといって、悲劇に出会い、波風でひっくり返るような
目にあうとは限りません。信仰を持ってなくても普通に過ごして
いる人たちはいます。しかし聖書は、それは暗闇の中で漂って
いる状態だというのです。聖書では、暗闇は主イエスに相反する
もので(ヨハネ1:5)あり、罪の世界です。そこは、私たちが目指して
進んでいく地ではありません。
 暗闇の中の船に、近寄ってくる主イエスを見て、弟子たちは
恐れました。なぜなら、暗闇という罪の中にいたからです。
 アダムが罪を犯した時に、近寄ってこられる神さまを恐れ、
隠れたように。しかし、主イエスは、闇に漂う私たちを裁き、
断罪するために近寄ってこられるのではありません。
 「恐れるな」とおっしゃいます。それは、ご自分が十字架にかかり
罪を取り除く決意をしておられるからです。主は罪の中で漂って
いることを望まれず、目指す地に導こうとされます。
 その主イエスをお迎えする時、漂っていた舟は進みだします。
 「するとまもなく目指す地に着いた」のです。
 私たちの歩みは、嵐に遭わないで、楽しく船旅をすることが
目的ではありません。目指す地があります。
 主を迎え、闇を渡って天の父の家に至ることです。